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所長プロフィール

公認会計士・税理士 大橋 誠一


公認会計士・税理士
大橋 誠一 Ohashi Seiichi

1972年 京都市下京区生まれ

京都聖母学院幼稚園・京都聖母学院小学校・東山中学校・東山高等学校と一貫して京阪電車で通学していました。私が国税審判官として奉職した大阪国税不服審判所がある天満橋も京阪沿線にあります。

実家は日用雑貨品の卸売業を営んでいましたが、バブル経済の波に乗ることができず、得意先であった中小小売店が大規模店舗に飲み込まれる中で、特に私の中学入学以降には厳しい経営環境が続きました。

そんな環境の中で、学校法人東山学園(現在は合併により学校法人佛教教育学園)の給付型奨学金(富田保治奨学金)を受給しながらの学生生活を送りました。

厳しい経済状況であったにもかかわらず、幼稚園から高校まで私学に進学させてくれた母と亡父には相当な苦労を掛けており、せめて塾に行かずに国公立大学に進学したい(絶対に浪人はできない)という気持ちで受験勉強をしていました。

1991年 滋賀大学経済学部情報管理学科入学

当時の国公立大学においては珍しく二次募集の定員が多かった大学であったことから、とりあえず応募していたのですが、一次募集の理系大学に合格できず、結果として経済学部に進学することになりました。

ちなみに、学校説明会にも参加したことがなく、キャンパスに初めて足を踏み入れたのが入学手続の日(しかも4月に入ってから)でした。

「第一志望ではない」しかも「理系崩れ」ということで、入学当初のモチベーションは低かったのですが、情報管理学科でありながら、なぜか「簿記」が必須科目であったことが私の人生の歯車を動かすことになります。

「どうせ勉強するなら基礎からしっかりと学んだ方がよい」と思い、1年次の7月から大栄経理学院の日商簿記3級講座を受講しましたが、当時の講師の「この調子で行けば税理士まで行けるのではないか?」という営業トークを真に受け、また、バブル経済の崩壊が始まっていて「『手』ならぬ『頭』に職をつけないと生きていけない」という意識が強かったことから、2年次の9月から、大栄税理士学院の税理士講座の受講を始めました。

「大学は受験資格を得るために通学する」との割り切りの下で、1年次・2年次は、3年次以降の受験の負担を軽くするために、とにかく単位を収集することに徹していました。

 

1995年 税理士試験5科目合格

日商簿記1級を経由していないことから、1年目は簿記論に絞りましたが、受験前日にまさかの高熱を出し、夕方の病院の待合室で頭を抱えました。

しかし、冷夏(米不作でタイ国などから緊急輸入をした年です)が有利に作用して何とか受験することができ、受験できることの喜びによって緊張がほぐれ、第3問(配点50点)の建設業会計の完解につながりました。

2年目は財務諸表論と相続税法を受験しました。

財務諸表論は簿記論の延長線上で特段の苦労なく合格し、相続税法は前年(1993年)の奇をてらった出題傾向(例えば、専門学校の当時の理論問題集に掲載されていなかった物納の「撤回」だけを回答させる出題)が影を潜めたこともあってか、特に失敗なく合格しました。

3年目は法人税法と消費税法を受験しました。

景気後退期にありながらも何とか就職先を見つけてくる(公務員試験に合格する)友人の姿を見て、「こんないつ合格するかもわからない試験を受験していて良いのだろうか?」という思いにさいなまれることもありましたが、今から思えば、景気拡大期であれば周りに流されて就職し、受験を諦めていたかもしれません。

卒業直前に阪神・淡路大震災、卒業式の4日後に地下鉄サリン事件が発生するという世相の中での受験環境でしたが、結果として5科目とも初回受験で合格できた原動力は、専門学校の受講料の全てを日本育英会(現在の独立行政法人日本学生支援機構)の無利子奨学金と家庭教師のアルバイト資金で賄い、「勉強しないともったいない」というモチベーションが維持できたからだと思っています。

 

1996年 広瀬来三税理士事務所(現在の税理士法人広瀬・京都市中京区)資産税部入社

1998年 税理士登録(No.86392)

1996年1月の税理士団体の税理士試験合格者祝賀会によって、現在の代表社員である広瀬裕先生にスカウトしていただきました。

広瀬来三先生は、シベリア抑留による復員後に税務講習所(現在の税務大学校)に入所し、大阪国税局勤務当時に立命館大学を夜間で卒業し、1953年の第3回税理士試験に5科目合格され、1955年に退官即開業された近畿の税理士業界のパイオニア的な存在でした。

税理士法人広瀬は自他ともに認める「税理士を育てる事務所」であり、「常に関与先企業の立場に立って最高最大の努力をしなさい」「常に疑問を持って仕事をしなさい」という教えは、現在の私のキャリア形成に大きな影響を与えています。

入社して5年が経過し、やっと1人前に育ってきたところで「公認会計士試験を受験するために退職したい」と申し出た私に対して、「実は、僕も公認会計士になりたかったけど業務が忙しくなって諦めたんや」と送り出していただいた広瀬来三先生は、まさに私にとっての「税理士の師」であり、奇しくも「税理士試験5科目合格」かつ「国税OB」という共通点を得たことを光栄に思っています。

広瀬来三先生は2018年にご逝去され、私が国税審判官に任官されるご報告をした時が、お話をする最後の機会になりましたが、その時の「大したもんや。審判官は署長と同格やで。」とのお言葉が忘れられません。

 

2004年 公認会計士第二次試験合格

日商簿記2級に合格した時点で、税理士・公認会計士のいずれの道に進むか思案していましたが、それまでの私の受験環境から「7科目一括受験」のリスク選択が難しく、「科目合格制度」である税理士試験を選択したという経緯がありました。

しかし、2001年頃になると、公認会計士の増員計画が報道されるようになり、その時点で28歳であった私は、「年齢的にも挑戦できる人生最後のチャンスである」と決断し、クレアールアカデミー(かつての東京商科学院)に入学して、公認会計士第二次試験の勉強を開始します。

退路を断つことを表現するために、大阪府茨木市にあった社員寮メンテナンス会社が管理する社員・学生寮に入寮し、大阪市北区中津にあった学校に通学しましたが、2002年に父が急逝し、その相続手続をする必要から1年足らずで実家に戻りました。

父の相続手続は、財産こそ多くないもののそれなりにシビアなもので、これまでの税理士試験及び税理士実務における経験に自らが助けられました。

今から思えば、父の急逝がなければ合格がもっと早かったかもしれませんが、受験期間の後半には、滋賀県近江八幡市にある税理士法人のお手伝いをしながら勉強を継続し、2004年に合格することができました。

また、公認会計士第二次試験の選択科目には「民法」があり、その学習経験が国税不服審判所において活かされることになります。

 

2004年 有限責任監査法人トーマツ入社

2008年 公認会計士登録(No.22220)

2013年 デロイトトーマツ税理士法人出向

監査法人では、在学中の合格であっても前職が税理士であっても基本給は同じであり、私も会計士補1年生の初任給からスタートしました。

監査法人の経験しかない公認会計士は税理士よりも税務知識が薄いことはやむを得ないところです。

私が入社して最初にメインスタッフとなった会社は、大阪市中央区谷町六丁目にあるスポーツ用品のエスエスケイという会社でしたが、往査の初日に、経理課長から「大橋さんって税理士の資格をお持ちらしいですね。監査とは関係がないのですが、印紙税について教えていただいてもよろしいでしょうか?」と声を掛けられました。

こうして「税務の質問に対応してくれる珍しい会計士」としてクライアントからも監査チームからも重宝がられるようになり、会計士補1年目でありながら法人税等(税効果会計)の監査を担当していましたが、これまでのキャリアからすれば当然だったかもしれません。

しかし、たとえ私が税理士資格者でも、最も若い入社(合格)同期との11歳の年齢のハンデは埋めがたく、このまま監査法人でマネージャー・パートナーに昇進するようなキャリアプランは描いていませんでした。

むしろ、このままでは、税理士になってから公認会計士になるという結果的に「壮大な遠回り」をしていることになり、「両方の資格の実務経験を同時に活かし、かつ、自らの方向性を決定づけるキャリアプランはないものか」と模索を続けていました。

 

2012年・2014年 国税審判官採用試験

私が国税審判官の存在を知る契機は、近畿税理士会の広報誌の2010年8月号に、私と入れ替わりで国税審判官を退官された佐藤善恵税理士(現在神戸学院大学教授)が国税審判官に任官されるに当たっての所感を記述されていた記事を拝見したことです。

その当時は「こんな税理士のキャリアの活かし方があるのか」という程度の印象でしたが、「税理士と公認会計士の両方の資格の実務経験を同時に活かし、かつ、自らのキャリアを特徴づけるものではないか」と次第に考えるようになりました。

そして、2012年に、税理士・弁護士・公認会計士を対象とした国税審判官採用試験に応募しましたが、正直に申し上げて、当時の私は「両方の試験合格と実務経験を経ているのだから合格して当然だ」と思っていました。

首尾よく書類選考を通過し、東京霞が関の財務省本庁舎であった面接試験に臨みましたが、国税不服審判所本部所長を筆頭とした幹部によるリーガルセンスを問う質問に全く対応できなかったばかりか、面接官のお一人であった当時の大阪国税不服審判所長の西川知一郎さん(2021年5月から神戸地裁所長)に「あなたは、国民全体の奉仕者になるというよりも、自分のキャリアのためだけに応募したのではないですか?」と見事に見破られてしまいました。

結果は案の定不採用となり、2年後に再挑戦するときには前回の経験を踏まえておおむねそつなく面接試験に対応したのですが、最後に、当時の大阪国税不服審判所長であった瀧華聡之さん(2021年5月に大津地裁・家裁所長をもって定年退官)に「『求釈明』ってどういうことか理解していますか?」という質問を受け、ついに馬脚をあらわしてしまったものの、最終的には何とか採用されることになりました。

任官してから、当時の採用に携わった方から「あなたは、税理士・公認会計士のいずれの枠でも採用できたのですよ」と言われ、やはり、両方の試験合格と実務経験を経たことがこのチャンスを掴むことに貢献したことを知りました。

 

2014年 大阪国税不服審判所神戸支所国税審判官

2015年 大阪国税不服審判所第二部国税審判官

2016年 大阪国税不服審判所第一部国税審判官

国税審判官という前に、41歳にして初めての常勤の国税公務員になったことのカルチャーショックが大きく、「日々新鮮・日々勉強」の連続でした。

また、税理士・公認会計士としての業務知識・経験を活かすことができるといっても、それだけで国税審判官としての職務を遂行することはできず、ひとえに自らの力不足と戦い続けた3年間でした。

しかし、何より、国税庁の審理専門機関として、目の前で必死になって処分の取消しを主張してくる納税者と真剣に向き合い、税務署が行った生の税務調査資料を検査し、自らの判断で関係先に職権調査を行い、ベテランの審理系国税職員や弁護士・裁判官出身の国税審判官・国税審査官のサポートを受けて、行司軍配をいずれか一方に挙げる経験をしたことは、税理士・公認会計士としての私のキャリアを決定づけるものとなりました。

同時に、上記の組織メンバーと常勤することによって議論をする環境が整えられていたことの副産物として、当時の国税職員がOB税理士として登録し、また、弁護士出身の審判官が弁護士復帰することにより、退官後の国税審理系のネットワークを構築することにつながりました。

 

2017年 税理士法人チェスター審査部部長

税理士法人チェスターは相続税専門の税理士事務所であり、2020年の年間の相続税申告件数は1,519件と日本有数の規模を誇ります。

応募の契機は、国税審判官の任期満了退官が近づいた2017年2月に、代表のブログに、相続税の審査ができる方の応募を呼び掛ける記事があったことです。

私がお客様の前に立つ機会はほとんどなく、「社内専門職又は外部の税理士先生が作成された相続税申告書草案の審査(税理士法上の添付書面の記載指導を含む)と業務相談対応」「各種セミナーの講師」「税務書誌・書籍の原稿執筆・校正」を主な業務としていました。

審査専門部署を経験して痛感したことは、たとえ相続税1税目といえども、把握すべきは相続税法及びその関係の取扱いのみならず、民法・借地借家法・建築及び都市計画関係法令など広範なものであり、かつ、申告方針について高度な判断を迫られるケースが多々あったということです。

また、税務論点の審査という領域は、「回答を探し出すもの」というイメージが一般的ですが、国税審判官の職務を経験してから臨むと、その事案にそのまま合致した回答を探し出せるケースは多くなく、むしろ積極的に「回答を作り出す(新たな規範の創出に挑む)もの」であることを実感します。

私は、品質管理という側面から関与しましたが、その立場の者から見ても、相続税申告事案にもっぱら従事していることによる税理士法人チェスターの各専門職の経験値は相当高いものがありました。

税理士法人チェスターの審査部部長は、国税審判官の調査審理の経験を活かせるありがたい職責であったのですが、所属税理士であるが故の機会損失が顕在化してきた(弊社のサービス業務全般を所属税理士のまま取り扱うことは難しい)ところから、自己の名をもってする税理士事務所の創業を決意したところです。

現在も税理士法人チェスターの外部顧問として、大阪事務所を中心に事案の審査や業務上の照会といった職務に従事しており、相続・事業承継関係については一気通貫の関係を維持しております。

 

 

 

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